人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)

第1回AI美芸研
講演:高橋恒一

以下のページは、AI美芸研スタッフが、勉学のために文字起こししたものです。 講演の内容をできるかぎり再現しようとしたものですが、誤謬があるかもしれず、講演者の意図と異なる可能性もあります。 公開については、講演者から校正や御確認を頂いているものではなく、あくまでAI美芸研スタッフに責任があります。 ご了承の上、ご覧ください。

(文字起こし:フルヤアツシ、校正:トモサカアキノリ)

高橋恒一(理化学研究所生命システム研究センター)
「近代の終焉の終わり -ベルリン中央駅、オートポイエーシス、機械知性-」

司会:
高橋恒一先生にお話しいただきたいと思います。簡単にプロフィールを申し上げます。理化学研究所生命システム研究センターで研究室を主宰ということでございます。残りのことについてはご自身からお話をしていただきたいと思います。

高橋恒一:
プロフィールを読み上げて頂けるということだったのですが、自己紹介スライドを入れておいたので、そちらで説明させていただきます。僕今日どんなタイトルの話にしていたかと申しますと"近代の終焉の終わり"と。サブタイトルでは3大話的なタイトルになっておりまして、"ベルリン中央駅"、"オートポイエーシス"、"機械知性"……まぁこれは"人工知能"でもよかったのですが、個人的に"機械知性"のほうが、語感が好きなのでそうさせていただきました。

今日の話はですね、サブタイトルとは別に、3大話になっていまして。最初の3分の1で、表面的にはなってしまうのですが、人工知能の現状の技術水準の確認。3分の2で近代性ということと、人工知能ということと、〇〇について、その辺を整理する。それから、人工知能と社会の関わりについても話したいと思います。そして最後の3分の1では、先程から中ザワさんが力説されていました、自立性の話をしたいと思います。

そして、サブタイトルの1つ目である、ベルリン中央駅なのですが、最初から最後まで説明しようかなと思ったのですが、1つくらい謎があってもいいかなと思って、全部まだいいません。凄くスーパーモダンな建物ですね。でもできたのは00年代半ばなので新しいですね。なぜこの00年代になってモダン建築なのか?他の写真を見てみましょう。

ここを電車が走っているのですよね。地下鉄の駅もありまして、この辺から入っていくのですけれど、非常に機能的な作りになっているのですね。それからも、建物の外観としてはですね、構造的に合理的に設計されています。今回のお話をいただいたときに、なぜか僕の頭の中ではですね、ベルリン中央駅の建物がぱっと出てきて……僕の中ではこれが今日のテーマなのです。しかし、なぜこれがテーマなのかということは、今は控えさせていただこうと思っています。

僕は高橋と申しまして、理化学研究所の阪大近くの生命システム研究センターという所がありまして、そこの研究室に所属しています。ほかにも色々やってまして、慶応大学の教員とか、ロボット研究やバイオの素材の会社の顧問。全脳アーキテクチャ──脳型の人工知能を作ることを目的にしたNPOなのですが、そこの副代表もやっています。ドワンゴ人工知能研究所、あとはAI社会論研究会の共同発起人ということで務めさせていただいております。今日は存分に自分語りしていいということで嬉々としてきたのですけれど。

私は、秋田県出身でピアノを小さいころからやっておりまして、やめてしまったのですが、7歳くらいからプログラミングに興味を持ちまして、中学生の頃、この2つがつながるということでコンピュータ音楽……このときは人工知能ではなくてMIDIだったのですが、自分でどんな時にどんな音が出るかプログラムするという形でやっていました。もともと好きだったのですが、高校生になって物理を初めました。僕の中では音楽は数学なのですね。物理と音楽は非常に近いので、それで音大の作曲家を目指して対位法とか和声法とかをやっていました。しかしその中で違和感を持つようになりました。というのも、楽器の物理構造にどうしても作曲って制限されてしまうんですね。それで、そっから自由になるにはどうしたらいいか……?それでその時に出始めていたDSPというのを使って、音を波形1個1個から作曲していくというのをやりました。しかし日本で当時それを学べる場所が当時3か所しかなくて、慶応大学のSFCだったのでそこに進学したのですね。慶応大学というのはやる気さえあれば1年生から研究室に所属できたんですね。それで2年間くらい人工生命とかを使って音響作品を作っていたんだけど、それでも全然違和感をぬぐえなくて。

では、最終的に何をやりたかったのかというと、せっかくプログラムをやっていたので、プログラム自体が作曲してほしかったのですね。プログラム自体が人間の作曲家のように生きていて作曲をする。そして、その生きることっていうのは、時空間的にですね、自分の内部のダイナミクスとは独立に、世界に向かってパターンを生成していくということなので、生命として自立的なプログラムを作りたかったのですね。それと同時に大学1年生の夏休みにシステム理論の1つである、オートポエティックシステムの本を読んで、非常に衝撃を受けてですね。

生命の定義っていうのはこれなのかと私なりに納得した部分があったのですね。この2つ──コンピュータサイエンスとオートポイエーシスをくっつけたかったのだけども、当時の……今でもそうなんだけれども、コンピュータサイエンスの水準ではやりたいことをやれなかったと。それでまずは生命科学を学ばないとなと思いまして3年時で研究室を変えました。

それで何をやっていたかというと、生き物の最初の構成要素の細胞がありますね。皆さんも細胞でできていますね?細胞の中で起きる化学反応をコンピュータでシミュレーションするということで、つまり生命のシミュレーションをやろうということで、指導教官富田教授とともにやっていまして、〇〇システムというプログラムを学部生の頃から作って、世界初の全細胞シミュレーションを成功させました。一緒にやったのが、プレイブ=ベンターというヒトゲムプロジェクトでも活躍された方ですし、95年くらいにDNAシーケンサーというDNAの文字を読む機械で、ある生き物の全DNA情報を明らかにするなどということをやった。これはですね、アメリカのタイラー研究所と協力してやりました。そんなこともありまして、その後アメリカに留学しました。やったことは似ていて、細胞シミュレーションのための計算技術を作っていまして、その後でいまから5年くらい前ですね。スーパーコンピュータの「京」を神戸に作るというプロジェクトが立ち上がりまして、日本の文部科学省なんかが中心になりまして1200億円くらいかかって大きなコンピュータ作りました。その際、今後重要な分野として生命シミュレーションがあるということになりまして。そしてその生命シミュレーションのプログラム書ける人が誰かいないかということで、呼び戻されまして理化学研究所に戻ってきたという経緯です。

最近、この2・3年くらいなのですが、人工知能や脳に興味がありまして全脳アーキテクチャイニシアチブを立ち上げました。そして人工知能の問題は考えれば考えるほど社会に対するインパクトは非常に大きいので、根本的に人間性もそうだし経済もそうだし倫理もそうだし、全て変わってきますよね。経済学者の井上智洋さんという人と一緒に立ち上げました。現在ではこの会にも関連して、脳型の汎用性知能の実現を目指すという研究をしています。脳型というのが大事なのですが、その話はおいおいします。

そもそも"人工知能"という言葉がどこから発生したかと考えると、勿論これは造語で、1956年にダートマスという所に最先端の機械学者が集まりまして、この言葉を定義したという経緯があります。

デジタルコンピュータが開発されたのは40年代なのですが、非常に急速に性能の向上が進んでいます。そして思考というのは計算の一様式として捉えられるので、論理的にはこのまま性能の向上が続くと、当然に人間のように考えるコンピュータが成立すると考えられます。それは、いつになるかわからないけれど、成立した際にはこれを"人工知能"と呼びましょうとこの時に定義しました。加えて、この会議に出席している人は全員、コンピュータサイエンスの最も権威のある賞であるチューリング賞をとっていると。それから、私の師匠の師匠に当たるハーバート・サイモンという方がノーベル経済学賞をとっていると。

人間のように思考する人工知能を汎用人工知能と呼びますが、中々実現が難しいものなので、まずは要所技術に分割することから始めています。例えばチェス・自動翻訳・自動運転等で活躍するもの等……。特定のドメインに分割して開発され、その分野で活躍する「特化型人工知能」というものの研究からスタートして、現在もそれが続いているというのが現状です。

この2つの区別はですね、同じ人工知能という言葉が幸か不幸かついてしまっているので紛らわしいし、共通する技術も沢山あるのですが、基本的には本質的に大きな違いがあるということを認識していただきたい。

そして現在の第3次AIブームのきっかけになっていることですが、先程中ザワさんがおっしゃった通りディープラーニングという技術が出てきたことが大きな要因の1つになっているのですけれども、その話は後にします。そして、もう1つ。レイ・カーツワイルという方がいてですね。本来は発明家で、OCR(Optical Character Recognition, 光学文字認識)と言われる文字の自動読み込み装置やシンセサイザーの開発をされていて、今はGoogleの技術部門にいる方です。

この方が2005年くらいに書かれた本で、こんな図ができまして、横が年代でして、縦軸が全て、10万円ですね。皆さんの持っているスマホが10万円くらいだと思うのですが、10万円で買うことのできる計算機の性能を表しています。2000年くらい、いまから 15年くらいまえですと、だいたいネズミくらいの能力しかないのですが、だいたい、2029年くらいには人の脳くらいつまり1 Peta Flops程の性能のものが購入可能になると言われています。そのくらいの性能が皆さんのポケットに入るくらいになる予測なのですね。

そしてこれがどんどん進んでいくと、これはあくまで未来の予測なのでわからないのですが、2045年くらいには、全地球の人口、100億人の脳の性能に等しいものが、スマホくらいのハードウェアに収まってしまうと言っているのですね。とてもショッキングですね。

それに関連して、2045年くらいにはAIというものがクリエイティビティ、或いは科学技術研究などにおいても、全ての分野に於いて人間を凌駕するという予測が立つのですね。まぁ、信じている人もいない人もいますが……。しかし、具体的にいうと、予測通りにこれが続いていくかは重要な問題で──そこにはハードウェアとソフトウェアの観点があると思うのですが──結論からいうと、スパコンのプロジェクトに関わっている中で専門家に聞くなかでは、結論から言って2030年くらいまでの技術的な筋道はもう見えていると。逆に言うと、2030年くらいに人の脳くらいになるということはほぼ完全に予測できると。しかし、2030年以降になると予測が難しいと。そういう状況になりますね。

まぁこれは皆さん10年前くらいに使っていたパソコンの性能なのですが、1GHzくらいなのですが。じゃあ僕がいまここで使っているマックを見てみると、1.4GHzくらいですね。クロック値伸びてないですね。なぜ伸びてないかというとこれは電力の問題なのですね。電力密度の問題ですね。2000年くらいまでは、CPUの表面温度で、例えば肉を焼くホットプレートくらいの温度、そのくらいの密度なのですね。これが2005年には原子炉の表面くらいの熱密度になってしまっているわけですね。これ以上冷やすことは難しいと。この電力効率の問題が最大の壁になっています。

それで、先程人工知能にも色々な種類があってですね。僕が目指しているのは脳型の人工知能なのですが、やはり脳に学ぶというのが熱密度について学ぶという点において非常に大事だと考えています。

これは先程と同じ構図だと思ってください。横軸が性能だと思ってください。縦軸が電力密度なのですけど、80年代くらいからみていって、8bit、16bit、32bit CPUとどんどん発展しているのですが、先程言った感じで、熱密度がこれ以上上げられないので、従って性能をあげられないという状況があるのですね。ではこの座標に脳を置くとどうなるか こうなるんですね(左下の緑の星)

人の脳の電力消費って20Wくらいなのですね。(手元のパソコンを指差して)このパソコンの電力効率も20W程度です。ですので、わずかこのPCの半分程の電力消費で、考えたり喋ったりしているのですね。非常に熱効率がよい。

ソフトウェアに関しては、深層学習という話もありましたがAlphaGoの話がありましたね。これを開発したのが、Google Deep Mindという会社なのですが、この会社が去年の人工知能学会で正式に汎用人工知能の開発をすると宣言をしているのですね。具体的な話はしていないのですが、少なくともそういった研究をしていると。それからこの囲碁のプログラムがですね、3つの要素的特性を持っています。

まぁ1つは深層学習ですね。これがなぜブレークスルーとなったのかというと、それは画像認識ですね。盤面を画像認識で捉えて、それに対して、「どの程度自分にとって有利な手か?」「どういうときにどういった手を打ったらいいのか?」という解析をしている。しかし今までこの認知が難しく、逐一プログラムでゴリゴリ書いていたのですが、これを飛躍的に実現することができた。

残りの2つの要素としては、「強化学習」と「モンテカルロ木探索」という所ですね。強化学習については、どんな局面でどんな手をうったらいいのかってことを自律的に学んでいく。非常に初歩的な意味での要素である、と言っていいでしょう。じゃあどうして囲碁しかできないか?それは次の、3つ目の要素であるモンテカルロ木探索が関係しています。つまり、「囲碁というのがどういうゲームか」というのを予めプログラムとして書いてしまっている。つまりこの囲碁というドメイン値しか持っていない。つまりプログラムの領域知識として固定化してしまっているという所です。これを改善して様々な部分に対応できるようにすれば同じように学習し学んでいくことができますと。

我々はそういう問題も含めて全脳アーキテクチャイニシアチブを立ち上げ、これを人間の脳のように再現することを目指していくのですね。

具体的に言うと、人間の脳というのは様々な器官から構成されています。新皮質・海馬・記憶を司る扁桃核・感情を司る基底核。色々あります。そして我々は、その1つ1つのモジュールに相当するようなAIの機械学習プログラムを作っている。そして、それを組み合わせて脳のような思考機械を作ろうというのが我々の試みです。そこで大事になるのは、ここには明示的には書かれていないのですが、この試みは人間の脳をシミュレーションしようということではないという所です。脳というのはニューロンが100億個くらい集まってできていると言われていますけれど、これを全てシミュレートしようとすると到底間に合わない。今世紀一杯かかるとも言われています。

なので、脳の細胞一本一本のシミュレートは取り敢えず置いといて、器官のレベルで、だいたいどういった情報処理をしているかを計算し、それぞれプログラムに置き換えることで、人間の脳に到達できるかわからないけれど、人間の脳に近づくことはできるだろうと。

いま汎用人工知能を開発しようとしている企業・研究機関は、我々が整理しただけでこれだけあります。実際もっと沢山と思うのですが、横軸が右に行くと脳全体、左に行くと新皮質といって論理思考とか感覚とかそういう部分のみに注目しています。右に行くと何が違うと言うと、感情とか価値に対する部分が違います。ここを重要視するかという所で各々の組織に濃淡があります。一番右に位置するのが我々全脳アーキテクチャで、価値システムを重要視しております。Google Deep Mindはここにある。日本だと我々以外に2社ありまして、フジコンピューティングというスパコンを作っているベンチャー企業なのですが、この前の全脳アーキテクチャシンポジウムで、我々も作るという風に宣言しました。そして彼らも2030年代を目標としています。それから記号創発(立命館大学や電気通信大学が中心にやっている団体)や、クローズでやっている団体、nnasenseというスイスの有名な神経科学の教授が初めた団体等があります。まさに現在、どの団体が一番早く汎用性人工知能を開発するか? という開発レースが起きているという状況ですね。

そして全脳アーキテクチャの時、非常に受けていた話をするのですが、「人工知能の汎用性とは何か?」ということなのです。やりたいことは、基本的には知的作業を自動化する事。基本的には「自動化機械」なのですね。そこで何が問題になってくるのかということは、基本的に自動化機械なのでいちいち人間が指示を出す必要があるようであれば、経済的な価値が非常に低くなってしまうということでしょう。つまり、「人間の介在なしにタスクを自動化できるのか?」。そこで大事になってくるのが自律性ですね。

「自律性」と「汎用性」というのは全く関連性がないように一見思えるのですが、実際には非常に深く相関しています。自律性というのは認知科学的に言えば、ものを認知して意思決定をして、何らかの行動をするということ。そしてその行動をもう一度客観的に認知してまたそれが次の意思決定につながっていくというサイクル。それがどれだけグルグルと途切れなく続いていくのかというのが、自律性とほぼ同義だと考えます。

その時、認知して意思決定し、対処できる状況の幅が広がれば広がるほど、それが「汎用性がある」ということです。そして、それがそうなるほど、認知行動サイクルの途切れが少なくなります。なので、自律性と汎用性は深く繋がっているということが言えます。そして、これを実現するのが技術的な言い方をするならば、「認知脳アーキテクチャ」といいます。

それからAIの社会に対するインパクトが非常に大きいという話を先程しました。例えばアナロジーで話したいのですが、インターネットが95年くらいにできました。そのときにご存じの方はいらっしゃると思うのですが、OSI参照モデル(コンピュータの持つべき通信機能を階層構造に分割したモデル)というのが出てきました。そしてこれが出てきたことで価値観というのが変容しました。

それまでの電電公社のISDNという話がありましたけれど、64KBケース単式を必ずどんなときにも通信速度を保証します。そしてそれに対して対価を受け取りますという経済システムだったのですけれども、インターネットの場合は8Mbpsでもたまには8Mbpsフルが出るけれども、通常は最善努力100kbpsくらいしかでないと。それから集中系か分散系かという所で世界観や、法律、経済といったところまで影響が出て来る。

サミュエル・ハンチントンが93年に書いた『文明の衝突』という著書がありますが、裏にあるのはソーシャルネットワークの発生ですね?社会のあらゆる側面において、ネットの普及は大きな影響を与えたのですが、AIの発生はこのネットの成立以上に大きな衝撃を我々に与えるだろうと。価値観も変わるし、仕事をしなくてもよくなるだろうし、「しなければいけない」から「したいこと」への変化や、そもそも「お前らなんで生きているのだ?」という価値観の問題なども出てくる。自動運転車が事故を起こした時、「それは誰の責任になるだろうか?」といった法律の問題もある。経済、政治、思想……その他、AIの登場によって多岐に渡って社会構造の変化が齎されるだろうということが予測されます。

それに関連して、宣伝めいた話になるのですが、AI社会論研究会というのを、私、おこなっておりまして、月1で講演を行っているのですが、ぜひともご参加ください。様々な人の話が聴けます。

そこで論じられたテーマの1つが、「AI成立後の世界でどういったアティチュードが必要になるか」。1つはソウル大学が考えた概念でELSIというのがあります。しかしこのエルシーは寧ろ、「もう既に成立している技術」を基盤に考えられたもので、我々としてはこれでは不十分という感覚が拭えません。そこで我々はこれに哲学や経済学、政治学の概念を加え、これらの頭文字をとってHELPSという概念を総合的に考えました。

  • Humanity(人類)
  • Economics(経済)
  • Law(法)
  • Politics(政治)
  • Society(社会)

この話の中で出てきた議論の1つにですね、経済学者の井上さんという教授の話を参考にしているのですが、今までのAIの議論の中心はどうしても自動運転だとか、仕事がなくなるとか、働かなくてよいとか、図版最右部のことを考えがちなのです。しかし実は、先程申し上げましたとおり「AIが知的労働を自動化する」と申しましたが、そして知的労働の最たるものは何か?と考えますと、これは「イノベーション」なのですね。科学技術の研究なのですね。クリエイティビティというもの。それがマクロ経済学的の上流に当たると。

なので、まさにここについて考えていかなければならないと。では、イノベータという部分について考えると、AI成立によって色々な雇用が奪われるという議論がありますけれど。それでは一番最後の特性は3つくらいあるだろうと。1つは「クリエイティビティ」。そして「ホスピタリティ」、それから「マネージメント」ですね。そしてここらへんについてはAIには中々扱うのが難しいと言われているのですが、やっぱりこれは時間軸の問題だと考えます。

つまりクリエイティビティが自動化されていく過程を考えると、この人間の牙城も崩れていくのではということです。なので、創造性という部分に関しては、今回中ザワ先生が取り上げた「芸術」ということだけに限らず象徴的かつ本質的な議論が含まれているのではないかと考えます。

そしてこれに関連して、AIが人の創造性の発揮にどう影響するかという点、そして、先程中ザワ先生がおっしゃったように、AIそのものが創造性をどのように発揮するかという問題。その2つはやはり分けて考える必要があると思います。その議論の範囲は、建築・美術・音楽と多岐にわたるでしょう。また20世紀後半から発生したDeep Dreamとかは基本的には「生成モデル」という機械学習のアルゴリズムを使っています。

実はこれは、現在理化学研究所でやろうとしていることなのですが、AIに、「ここはこうやったらうまくいくんじゃないか?」といったような、「仮説の生成自体の生成をさせる」ということを考えています。そして、こういった技術が出てくると、現実に起きているような新しいパターンを生成するという以上にそれは深いことだし、一旦それによって創造性という人間の牙城が崩れた場合に、ビジネス・マーケティング・制作業・経営といった今まで不可侵な部分に一気にAIが入ってくることが予測されます。

ここから話が大きく変わるのですが、(上スライド:左上の図を図示)ここに縦軸と横軸があります。縦軸が、労働者が1時間に働いたときに得られる対価、そして横軸がそれによって生まれた商品の値段ですね。これを見ると70年代をさかいにどんどん乖離していますね。労働者の給料は全然あがっていないのだけれど、企業側の利潤が一気にあがっていく。なんでこんな事が起きるか?貧富の差や産業構造など、様々な要因があるのですが、結局はここだと思うのですね。

18世紀の第一次産業革命。ジェームス・ワットによる蒸気機関の発明・生産機構の機械化。それに継ぐ第二次産業革命、T型フォードに代表される大量生産・大量消費の構造が完成し、それが産業のあらゆる分野に影響を及ぼしていきました。

そして先程の乖離をもたらしたのが、「大量生産大量消費」という産業革命の効力が、産業のあらゆる分野に波及して自動化できるものは自動化しきってしまった。これ以上効率を上げることができないところまで来たということです。そしてそれが進んだ先に、もう自動化できる分野はなくなってしまいました。しかし、これによって自動化されたのは肉体労働であって、ホワイトカラーの労働は人間の専売特許として残りました。そしてホワイトカラーの労働を自動化しようとする試みは、いわゆる第三次産業革命(IT革命)であって95年のインターネットの爆発的普及を契機にしています。

しかしその効力はこのデータ(2枚前の乖離のグラフ)を見る限りほとんど現れていません。それに対して、本当の意味での単純な知的労働だけじゃなくて、クリエイティビティも含めた上での本当の意味でのAIによる知的労働の機械化というのが起きてくると、第一次、第二次で起きた産業構造の向上の流れが、直線的な向上(乖離の無い構造)という本来の流れに戻っていく可能性があります。第一次・第二次産業革命の効力が切れたということで、例えば80年代では、文化芸術の分野で、「今ある資源だけで皆さん幸せにやっていきましょう」という流れがあったのですが、もう一度イケイケドンドンの時代が来る可能性があると。

そしてサイエンスでも同じことが言えるでしょう。近代科学が現代科学に進展できたのは量子論とか確率論などにおいて絶対客観というものを措定することによってです。しかし、本当は、絶対客観と(いうもの)はありえません。しかし「主観性の並列の中でお互い合意できる所だけ合意しましょう」というマインドセットへの本質的なシフトをすることで、現代科学への脱皮が成立しました。

そこまではよかったのですが、20世紀の後半に至って、生命のネットワーク、気候現象などの複雑系の問題が立ち上がります。近代科学で扱っていた、かつてのアインシュタインのように1人の観測者で扱える科学の問題だけではなくて、パラメーターが非常に多い、平衡系ではなくて非平衡系、ダイナミクスの要素プロセス自体に線形の関係のみならず非常に複雑な非線形の関係がある問題が登場します。そしてその巨大な問題に何十人の天才が挑んでいったわけですが、根本的には未だに生命の定義、生命のサイエンスができてないわけです。これを突破することが、複雑系のキーとなるわけですが、これはもうスタックしてしまい、停滞感を醸し出しているわけです。

そこに対してこのAIというのが出てくるとどうなるか?

昔のサイエンスというのは、今の宗教観・世界観であり、個人の知的好奇心にドライブされていたのですが、経済的に産業革命を経由することによって、経済システムへの組み込みが起きて、個人で扱うものからプロジェクト化という流れが起きる。それによって投入できる人的資源・経済援助の規模が非常に大きくなった。その代わり扱わなければならない問題が非常に複雑化していきました。

その過程で、学問・科学的方法の細分化が高度に起こってきました。しかし、サイエンスの研究開発の部分で人工知能というのが投入できるとすると、ここでもう一度細分化した分野が収束し、経済システムそのものとなっていくと。そして個人の知的好奇心にドライブされていたものへの再回帰が起きる可能性があります。それは、科学の民主化といってもいいかもしれません。

ここから芸術の話になってまいります。これは高校の時読んで僕の原体験の1つとなっているのですが、国安洋の『芸術の終焉』という本を読んでですね。その中に出てきた色んな議論の1つに、カントの『判断力批判』というのがあるのですが、ここで一番最初の第一部第一章で、美学的判断力について語られているのです。中ザワさんもさっきおっしゃっていたのですが、善とか真とかいうものと異なって、美というのはそれ自体独立して存在することができると。つまり、例えば音楽なんかを聴くと感覚的に快感だからそれに価値がある。それに対して、美というのはそれそのものの存在に絶対的価値があるのではないかと。

古代ギリシャの時代というのは、美術とか主義というものが未分化の状態にあって、ScienceとかArtというものが未分化であったと。それが中世にいたると、なぜ我々が芸術作品を美しいと思うのか?という根拠を求めなければならなくなったと。それに対して、非常に宗教的な解釈を、その時点ではしたと。例えば「ミメーシス」。全能の神の創作物としてのこの世界があって、芸術とはその美しさを的確に切り取ったものであるから、全能の神が作った被造物たるこの世界の美しさの一部が漏れ出ていると。

しかし現代において神が死んでしまってからは、何かを代替しなければならないと。なのでカントは、天才という概念を持ち込んできて、天才みたいなものにその特異点を押し込むと。そしてその後の発展が非常にキーになると思うのですが、先程も言ったとおりその後に近代的な文明が終わってしまうと。その後作り上げてきた構築物を壊す。そして壊しきってしまった後は過去のその断片を継ぎ接ぎに折衷主義的に再構築していく。そういうルートしかなかったと。

もう1つですね。第三次産業革命による人工知能の世界を考えるともう一度直線的発展というかつてのルートが戻ってくると。そこが非常に私は興奮を感じます。生成的なパターンを経てですね、認知モデル、或いは仮説モデルという行為主体としての人工知能。或いは、人工知能になるか、人間の認知能力の甲冑になるかわからないのですが、芸術の発生と終わりという議論と、芸術のための芸術の発生と終わりという議論と、同時に議論できるという風に思うわけです。

本日の結論になると思うのですが、「汎用人工知能は自律的な行為主体になり得るかどうか」というのが非常に重要な議論になるかと思うのですが、オートポイエーシスという考え方がそこで起きます。70年代くらいの議論なのですが、生命の問題という視点から考えます。

生命のテンプレートとなるにはですね、DNAという鋳型がありますね。そしてその鋳型を使って何をやっているかというとですね、こっちに代謝系と言ってですね、体の外から必要なものを取り込んで必要以外のものを排出するというサイクルが回っています。

そしてその代謝系というサイクルを回しているのが酵素という巨大分子のタンパク質なのですが、そのタンパク質を生み出す鋳型になっているのがDNAなのですね。そのDNAからタンパク質を作るというサイクルと代謝系がぐるぐる廻るという2つのサイクルがあってそのカップリングが生命というサイクルと定義できると。

そして認知に対しても全く同じですね。それで汎用人工知能は行為主体となりうるのかという観点で考えると、そもそも行為主体とは何なのか?という問題になりますね。ただ単に計算モデルということ、計算できているということじゃないですね。外部の世界を自分の知覚器官を使って自己内部に世界モデルを形成する。そのモデルを使って外部の世界がどう動いているのか?「こういう行動をするとこういう結果が得られるのではないか?」というシミュレーションをしながらそれによって行為を決定していく。そのモデルが行為主体と定義されるのではないか?そうするとここで、身体性とがどうこういう考えも出てくるのですが、今日は割愛します。

ここで「ユクスキュルの環世界」という考えを紹介します。非常に説明し難い図なのですが。ここに対象というものがあります。それに対して主体と主体内部があります。受容器官と作用器官がそこにあります。汎用人工知能もそれを備えると考えているのですが、あらゆる生き物がセンサー系とアクチュエータ系を持っているのですね。そして実はこの2つの器官を通してしか世界とリンクできないのですね。ある対象を認知するときに、環境でも他者でもいいのですが、ある受容器官……目とか耳とか皮膚とか、非常に不完全な知覚器官を用いて、外界のモデルを構築していくのですね。そして一方外界に対して作用する時はですね、手とか足とか口とかそういったものを使って外界に作用していくと。そしてこの内部モデルを持っているというのが行為主体の発生というこのテーマに深い関係を持っているのではないかと思うのですね。

そして最後のスライドなのですが、人工知能を使って芸術作品を作るという発想もあるのですが、人間というのは24時間しか時間がないわけですよね。ですから映画が2時間かかるとしたら1日に見れる映画の数は限られていますね?でもコンテンツがどんどんどんどん制作の過程で自動化されていくと、制作される本数もそれに応じて増えていきますね。そういう時にですね、例えば自分の身代わりになってですね、人工知能が何千本何万本という映画を読み込んで、「君は、この映画みたらこのくらいドーパミンのレベルがあがってたから、この映画みたら?興奮するに違いない」みたいな感じで、身代わりの本人のドーパミンの発生量などを図って、本人にリコメンデーションをしていくと。そういうことが可能になるわけです。

そしてこれで話が終わりではありません。どういうことかというと、そこまでできると、行為主体の話に戻ってくるのですが、何らかの創作行為をするという時は、他者なり自分なりのモデリングを必ずしているのです。例えば筆で線を一本ひくたびに、これを使うことによって自分はこういう風に変わるとか、興奮するとか、嫌悪感を抱くとか、シミュレーションをしつつ必ず創作行為をしているのですね。ですから、今はなした身代わり技術はここで終わりじゃなくて、ここを出てくることによってはじめて真の意味での創作性をもった人工知能につながるのではないか?と。そのためには、人間の認知モデルというのを非常に精密に模していくのが必要ということです。それが我々の作っている全脳アーキテクチャの作っている技術がこういった所で役に立つのではないか?と結構真剣にこういった話をしている所です。

オチとしてこんな話でいいのかというのはありますが、わたくしの話は以上にさせて頂きます。

質疑応答1

Q:
人工知能が凄いプログラムを作ったとしても結局センサーデータの性能に縛られてしまうのではないですか?

A:
でも人間の目の性能って大したものではないですよね?せいぜい100万画素で、真ん中で見えてる部分でしか色を認識していないし、色の識別もせいぜい何万色とか……つづけてください

Q:
人工知能が自らセンサーを作るというのがないと、人工知能は達成しないのではないですか?

Q:
それは段階というものがあって、そういったことも大事なのですが、今自分は目の性能や耳の性能というのは高くないと申しましたが、それでも外界の内部モデル、他者の内部モデルを作るということで、できたものが面白いかは別にして、制作することは可能になると思うのですね。そのあとセンサー系・アクチュエーター系を自分で設計できるかはまた別の議論で、そうすると自分で自分をどんどん自己改良していくことができるので性能が上がっていくのですが、性能の向上の話と、そもそも創造が可能かということは違うと思います。

質疑応答2

Q:
興味深い話をありがとうございます。簡単な質問をしたいと思います。先生のお話の中で創造性の発揮が可能になるのではないかというお話なのですが、ここでいう創造性というのは、例えば科学的発見であったり、新しい芸術様式の誕生であったり、歴史上今までなかった価値のあるアイデアや成果が生まれるということですか?

A:
いや、定義していません。なんでもいいのではと思います。結局人工知能は主観だと思うのですね。今まで見たことないものを制作するしかないのは人間も同じじゃないですか?

ただ、そういうことが出来るようになるかはまた別で、話が芸術でなくてサイエンスになってしまって申し訳ないですが……──まぁ僕の中では同じ構図なのですが。サイエンスがなにをやってるかというと、自然現象があって、人間が了解可能な帰納的知識に落とし込んで、データから帰納的なプロセスで予測する能力を作る。仮説化は検証に回して、その検証と整合性があえば知識として蓄積する。これは機械学習やシミュレーションができる。それに対して、アブダクションの所、つまり予測してうまくいったということを足場に仮説を作り出すことができるかどうかが大事で。例えば音楽作品で、ここにこの音が加わるともっと良くなるとか、この意図を加えると技術的に価値が高まるとか……また価値の問題もありますけど。そういった行為主体としての完成というのが関わってくると思いますね。

Q:
ということは、例えば心理学者や認知科学者が創造的な認知プロセスはどういうものか?ということを解明する時に念頭に置いている創造的なプロセスということでしょうか?

A:
なるほどね、そういうことだと思います。

司会:
それでは以上で質問を締め切りたいと思います。最後に高橋先生に拍手をお願いします。